はつせの世界 このページをアンテナに追加 RSSフィード

1911-01-12 Thursday はつせの世界 第三章 6

天井型クレーンに吊された巨大な鉄塊が静かに工場内を進む。建屋全体が一つのフロアとして広がった空間には約100名ほどの人間が居たが、その全員がゆっくりと誘導されるその物体に視線を注いでいる。

それは、鋳造され切削された鉄の箱である。上下に薄く周囲の四面は山状に傾斜し、各部に大小様々な切り口が空いている。その最大のものは底面に開けられた巨大な円状の穴である。

その鉄の箱は空中移動を終えると、今度はゆっくりと下へ下ろされていく。下で待つのは、二回りは大きく無数の車輪を備えた鉄の箱。下の箱に開けられたやはり大きな輪のような開口部にむけて、天井から下ろされた箱部の開口部が合わされる。周囲からワラワラと近寄った作業服の男達は、細部を慎重に確認しながらクレーンの下降を見守り、時に一度引き上げてはまた調整する。やがて、金属のこすれ合う音を立てて、鉄の箱はキッチリと重ね合わさった。続いて、やはり空中に牽止された砲が差し込まれ、各部に装甲が据えられ、調整されていく。

角張った車体に無限軌道、避弾経始を考慮した傾斜装甲を備える砲塔、そして幾分盛り上がった車体後方。それは、見る人が見れば西ドイツの傑作戦車・レオパルト1との共通点を指摘したかもしれないし、あるいは主砲塔の印象から陸上自衛隊の74式戦車を思い出したかもしれない。しかし、よく見ればそのサイズが備砲も含めて一回りは小さいことに気付くだろう。

40口径80mm砲と砲塔前面100mm、車体前面80mmの装甲を備えるその車輌は、32tを僅かに切る重量をもった巨大な"中戦車"であった。明治44年式試製30t戦車、というのが現在この車輌に与えられている名前である。ちなみにその前は、明治40年式試製25t戦車であり、その前は明治39年式試製20t戦車であった。名前にその紆余曲折ぶりが刻まれている。

はるかに小振りな排土板付きの無限軌道車(いわゆるブルドーザー)に台車ごと牽引された戦車は、建物のすぐ外まで運ばれた。台車が固定されると、カーキ色の戦闘服に身を包んだ兵士が4名、中戦車の各部に空いたハッチから潜り込んだ。車長が上面ハッチから顔を出すと、轟音と共にエンジンが起動し、車体の後ろから濛々と黒い煙を吐いた。

車長の号令にしたがって、転輪ががらがらと音を立て履帯が雪に埋まった大地を踏みしめた。今日も、北の大地に孤独の巨象が歩みを進める。


朝日技研工業・車輌技術研究所、表向きの名は陸軍兵器試験場第6042号というのがこの地の名称である。しかし、関係者の間では『クビンカ』の愛称を持って呼ばれていた。これまでこの世に生を受けた戦車が全て存在する場所、ということで付けられた渾名であるが、残念ながらここにはまだ4種しか車輌が置かれていない。

その1:明治42年式敷設作業車

先ほど牽引車としても使われていたブルドーザー。正式化は遅かったが最も最初に開発された車輌で、ディーゼルエンジン搭載型装軌車輌の試験用に試作されたものが正式化されたもの。約6t。

その2:明治41年式騎兵戦車

これは偵察部隊用の軽装甲車で、ごく簡単に言えばM113のように兵員を保護しつつ移動できる兵員輸送車(Personal Career)である。シンプルな箱形の車体に12.7mm機関銃を搭載した簡易砲塔を備える。約11t。

その3:明治42年式歩兵戦車

41年式騎兵戦車の発展型で、塹壕や野戦陣地を踏破して兵員を輸送することを目的としている。装甲装備の強化と47mm砲を備えた砲塔を車体上部に増設している。約15t。

そして4種類目が明治44年式試製30t戦車であるが、これは過去の遺物として20t試作車と25t試作車も保存されている。前者三種類が曲がりなりにも正式兵器として登録され、数量こそ少ないながらも配備が進められているのに対して、本当の意味での戦車である中戦車シリーズは今だに試作の域を出ていなかった。


「そんなに悪い出来でもないようだが。彼らが作ったにしては。」

窓の外で轟音と共に機敏な動きを見せている44式に、榊玄一郎特務大尉は首を傾げた。眼下に見える試験場では、42式敷設作業車、通称ブル車が数台、場内の雪を除けつつ忙しなく行きつ戻りつを繰り返している。その中央にはひときわ大きな戦車の影。騎兵車と歩兵車が、どこか戦車として頼りなげな姿であるのと較べて、その大きな姿には『我コソ醜ノ御盾ナリ』と言わんばかりの迫力がある。

「そりゃあ、44式はいい戦車(コ)ですよ。」

榊の言わずもがなの問いに答えるのは、神田頼子臨時少将である。いや、30を過ぎて少し熟女ぶりも身についてきた彼女は、大日本帝国陸軍から名誉元帥という珍妙な位を贈られているため、日本中どこへ行っても儀仗兵やら礼砲に迎えられる立場だったりする。なぜ元帥かと言えば、室蘭の近衛教導師団に研修に来る士官が大将であろうと遠慮無くぶん殴れるように、と言う気遣いである。

「でも、あの戦車(コ)持ち出してまで戦う相手って、ほとんど居ませんよ。20tや25tならまだわかるんですけどね。」

「20tはⅢ号戦車、25tはⅣ号戦車と大体同等だったかな。」

「ディーゼルにしたので、ちょっと重いですけどね。」

「だが、性能的には20年は先を行っている。かれらはどうして25t辺りで妥協して量産しなかったんだ。」

榊の質問に、神田は口先を尖らせた。

「25tの一台当たりの見積、幾らだったと思います?」

「幾らだったんだい?」

「……二等駆逐艦が一隻買えるそうです。」

「どこの見積だ、それは。」

「三菱です。」

榊は溜め息をついた。

「歩兵戦車が50台以上買えるのか。」

「正確には76台ですね。」

神田も溜め息を返す。

「それに、運搬や組み立て、整備に修理。歩兵戦車の5倍は整備工が必要ですから、仮に量産できても戦場に着くまでに稼働率0になるのがオチですよ。」

「やはりどうしても人の問題になるんだな。」

榊は忌々しげに鼻息を鳴らすと、懐から両切りの紙巻き煙草を取り出した。吸い口を取り付けてマッチをする。火を宛てながら吸い込むと、紫煙がゆっくりと立ち上る。

「航空機エンジンにしろ、ディーゼルにしろ、職工が居ないことにはどうにもならんなぁ。例の、陸海軍幼年機関学校はどうなんだ?」

「ただで機械の勉強をできるし、授業料をあとで返せば軍に入らなくてもいい。条件がいいから殺到してますよ。今年の予想倍率が300倍という話です。」

神田の口ぶりには、喜び半分痛ましさ半分という感情が表れていた。高卒が当たり前の社会で育ってきた神田であるから、尋常小学校6年間という義務教育年限の短さは今だにショックであった。しかも、その義務教育ですら完全に実施されているわけではない。『金を貰いつつ勉強できる』軍隊が人気になるはずであった。

「44式もそのうち出番はありますよ。今はともかく騎兵と歩兵ですけどね。大発も川崎も三菱も、量産発注で手一杯ですから。」

「企業の工員も増やして貰わないと、いつまで経っても技術も生産力も上がりやしない。航空学校の方もまだ立ち上がってないし。……ったく、どうなってやがるんでしょうかね、この国は。」

苛立つ榊に対して、神田はクスクスと笑った。

「大丈夫ですよ。遅々としているようでいても、ちゃんと前には進んでます。」

そう嘯く神田の眼下を、陸軍の連絡兵がオリーブドラブのカブで走り抜けていった。今や、日本はバイクが田舎道を走っていても珍しくない程度にはなりつつあるのだ。それは十分以上の進歩であるように思えた。



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