はつせの世界 このページをアンテナに追加 RSSフィード

1910-12-02 Friday はつせの世界 第三章 5

「ようこそおいで下さいました。」

その店を訪れる客は、まず最初にゆったりとした挨拶の声に迎えられる。静々と頭を下げるその女性は、オリエンタルな装いに身を包んだ小柄で品のある人物である。

「ご予約いただいておりますか? お二人でお越しですか?」

女性の問い掛けに、噂を聞いて来てみたので予約をしていないと答える。幾分時間がかかるとの返事にも、致し方ないだろうと頷きを返す。

「お席をご用意いたしますのでこちらのお部屋でお待ち下さいませ。」

急な来店にも慌てた様子はなく、従業員は東洋的な微笑を見せると待合室へ案内した。

初期アール・ヌーヴォー風の装飾を施されたいかにもパリの店といった店内と、日本の伝統的な装いであるキモノに身を包んだ従業員達は、以外にも驚くほどの調和を作り出している。初見の違和感は次の瞬間、完璧な合一に取って代わられる。アール・ヌーヴォーのイメージソースとなったジャポニズムは、その故国からの文化を受け入れることでより深さを手に入れたと言える。

またこの店は、特徴的な間取りを採用していた。

まず受け付けから待合室に通される。この待合室は間仕切りのない広めのホールで、あちらこちらにベンチや小さなテーブル席が設けられている。オッシュ通りに面した一角はガラスが全面に張られており、初冬のうららかな日射しを取り込んでいる。店内の待合席は既に八割方埋まっていた。噂に違わぬ盛況ぶりである。

ベンチ席に二人で座ると、今度は別の若い女性が歩み寄ってくる。

「本日は当店へお越し下さいまして誠にありがとうございます。お食事と喫茶をお選びいただけますがどちらにいたしますか。」

「喫茶でお願いします。」

「畏まりました。もしお足元が寒いようでしたら、膝掛けをお持ちいたしましょうか。」

「ええ、二人ともお願い。」

一礼して下がった女性従業員は、間を置かずに戻ってきて二人に毛布を渡した。

待合室にいる他の客は、よく見てみるとパリの社交界でも著名な人物が多かった。政府要人の姿もあれば、文化人の姿もある。特に女性の姿が多い。それだけ、この店が話題の種となっているのだろう。

「お久しぶりですな、マダム・マックレオド。」

見回すうちに、陸軍の少将とその副官に挨拶された。こちらも歩み寄って挨拶する。

「お久しぶりですわ、ジョフル将軍。いつパリにお戻りに。」

「つい先月です。参謀本部へ異動になりましてな。」

「まぁ、ご出世なさったのですね。ご息災で何よりです。」

「また今度是非マダムのダンスを拝見に伺いますよ。あれは実に素晴らしい。」

「ふふ。ぜひお越し下さい。お待ちしておりますわ。それにしても、こんなお店でお目にかかるとは珍しい。」

「実は私、甘いもの目がありませんでしてな。」

「あら。そうなんですの? でもそうなると、この店を見逃すわけにはいきませんものね。」

「ジャポネのワガシというのは、元々日本以外ではほとんど食べられないものだという話ですが、ここには300年以上も続く店の職人がいるそうでしてね。ジャポネのエンペラーに奉呈されているものが食べられるという話です。見逃す手はない。」

快活に笑う将軍に、マダムと呼ばれた女性も頷きを返した。

「私たちも話題を聞きつけてきたのですが、少し込んでいるようで待たされそうですね。」

「もしよろしければ同席いたしませんか。我々も二人ですが、もともと4人で予約を入れておりましたので。その方が待たずに済むでしょう。」

「ご親切にありがとうございます。ではお言葉に甘えさせていただきますわ。」

「いやなに。高名なマダム"マタ・ハリ"と同席させていただけるのは私の方が光栄ですとも。」


奥に案内されると、席は中庭に面した小さな部屋だった。床は石敷きに絨毯と西洋風だったが、窓は障子張りの引き戸、椅子は漆塗りの黒いものなどと、日本趣味に溢れた内装だった。しかし、ありがちなジャポニズム風のちぐはぐで珍奇なところはなく、落ち着いた風情のある作りであった。

案内してきた女性が障子戸を明けると、その向こうには小さいながらも静謐な空間が作られていた。庭は日本風の枯山水と竹林が設けられており、それは建物の石組みとマッチして不思議な魅力を醸し出していた。

「たいへんお待たせいたしました。ご挨拶に上がりました。」

庭に一行が見とれていると、そっとしたノックのあとに和装の美女が顔を見せた。20代後半という話だが、日本人は小柄で童顔のせいかもっと年若く見える。

「当店の主人を勤めさせていただきます、柳原燁子と申します。本日はようこそお越しいただきました。」

「この店は実にいい風情ですね。この庭も素晴らしい。」

「ありがとうございます。こちらの庭は日本から庭師を呼んで作らせましたもので、そういっていただけると店のものも喜びます。」

にこりと笑うと、女主人は手許の冊子を広げて見せた。

「当店のお出しできるお品になります。どうか写真をご覧になってお決め下さいませ。」

そこには、まだまだ珍しいカラー写真で映された、可憐で細やかなお菓子の皿が一つ一つ紹介されていた。

「まぁ。なんて愛らしい!」

そう感嘆しながら、マタ・ハリことマルガレータ・ヘルトロイダ・マックレオドは写真の精巧さに見入っていた。ここ数年で見かけるようになったオートクロームにしてはずいぶん発色がいいようだ。もしかすると、これが噂のフジクロームかもしれない。何とか入手できないだろうか。そう考えていた。

「ではご注文はこちらでよろしいでしょうか。ごゆっくりお過ごし下さいませ。」

流暢なフランス語で丁寧にお辞儀をして店主が去っていくと、メニューもそのまま持って行かれてしまった。

程なく運ばれてきたワガシは、甘みは十分強いもののくどくはなく、一緒に出された緑茶の苦みとも良くあった。ジョフル将軍はコーヒーで食べていたが、これはこれでマッチしたようである。品選びは、先ほどの若い女店主が丁寧に要望を聞いて手伝ってくれたので、その目利きが素晴らしいのだと思われた。

「ジャポネスタイルの食事も楽しめるという話だが、是非また一緒に来てみませんか。」

というジョフルの誘いに、マルガレータもまた笑顔で答えたのだった。


『今日も著名人が多かったわねー。なんといっても『マタ・ハリ』が来ると思わなかったわ。いやマジで。』

『まぁ、元首相のお気に入りの店となれば、いろんな人が来るわよ。まさか軍人に甘党が多いと思わなかったけど。』

『参謀とか高級将校になればなるほど糖分が欲しくなるのかもしれないわねー。もともとフランスは甘党の国だし。寒いから。』

店員に扮した擬体二人が会話を交わす中、店員一同の終礼が進んでいた。

店員の数は、女性12名男性8名で、その全員が日本人である。

「本日も皆さんのおかげで無事目標を達成することが出来ました。ありがとうございます。」

三人の店長の中で一番上役である柳原燁子の言葉に続いて、その横に立つ女性・九条武子が口を開く。

「明日ですが、以下の予約を戴いております。朝日商会の米内様4名、クレマンソー様3名、こちらは初めてのお客様として画家のクロード・モネ様をご招待されてのご会食です。ポワンカレ様2名、マダム・コンベ様5名、マダム・ブリアン様3名、マダム・エリオ2名様。以上です。また、お届けの件数も多数ありますので、調理方、客室方、お届け方もそれぞれ心して取り組んで下さいませ。」

全員の返事が返ったところで、各人の報告が始まる。

「マクマホン様ですが、他社との取引で大きな損失が出そうとのことです。」

「グラン様ですが、お爺さまから相続した遺産の投資先をお探しのようです。」

これは、この店で会話された内容のうち店員が聞き取ることが出来た内容を収集しているものである。通常、こういった『うっかり漏らした』話は無視してしまうのが客商売の礼儀であるが、この店では決してそうしない。顧客の困りごとを少しでも手助けして解決できれば、お客様と店の共存共栄に繋がる。そういう考え方は300年以上も続いた老舗の系譜を継ぐ店として当たり前のことであった。

そして、表向きに出来ないこの店のスポンサーにとっても、こういう日常的な情報は喉から手が出るほど欲しいものであった。

「本日も一日、ありがとうございました。」

「ありがとうございました!」

フロア長であり三人目の店主である藤谷栄子が礼をすると、店員全員が礼を返す。こういった儀礼の徹底は、海外での結束力強化のために必要不可欠であった。


皇太子のお声掛かりで明治40年に始まった料理菓子研究計画は、老舗の和菓子屋や料亭から洋食コックや洋菓子職人などから指折りの職人を集め、とある文書群から得られたレシピを片っ端から研究することで多大な成果を収めた。

この「とらやパリ支店」は、その結果として生まれた壮大な計画の種子であった。やがて、ヨーロッパの6都市に支店を設け、ヨーロッパ菓子の第五勢力となっていく「とらや」は、同時に大日本帝国国務諜報院のヨーロッパ出先組織「明石機関」の基本情報収集組織として、主に合法/非合法情報の収集に力を発揮していくことになる。


「じい、やはりとらやの洋菓子はうまいのう。このエクレアは誠に絶品じゃ。」

「宮様。四個は食べ過ぎです。弟の宮様が真似してしまいますぞ。」

「それはいかんな。もう一つでやめておこう。」

この頃、本場の洋菓子を勉強させるために職人を欧州に送りたかった人物が権力の中枢にいたが、明石機関とは全くの無関係である。


>第三章 6