はつせの世界 このページをアンテナに追加 RSSフィード

1910-07-11 Monday はつせの世界 第三章 3

奉天の張が来たと、田中大佐に伝えて欲しい。」

張は、馬丁に手綱を渡して帽子を脱いだ。初夏の陽気で幾分汗ばんでしまった。蒸れた髪をかき上げ、取り出した手ぬぐいで顔を拭う。

「お前達はここで待ってろ。景恵、お前だけ来てくれ。」

「ん。」

彼の相棒、張景恵が軽く頷く。

彼らの前に建っているのは、白い石造二階建ての立派な建造物である。洋風だが瀟洒というよりも威風堂々というべき風格を見せるその建物は、ロシア人が建てたものだ。今は日本人が使っている。玄関横に掲げられた看板には、「関東軍司令部」と書かれている。

「参謀がお会いになります。」

カーキ色に黄と赤のアクセントを加えた軍服姿が、さっと敬礼をよこす。

「お待たせいたしました。こちらへどうぞ。」

「私の副官も同行させたいが。」

「構いませんが、武器は守衛にお預けいただけますか。」

二人とも肯いて、守衛に武器を渡す。騎兵銃と拳銃。騎兵銃はアリサカType-38カービン、三八式騎兵銃と呼ばれているもので、張達が持っている物は田中大佐から贈られたものだ。拳銃は、景恵のものが一般的なモーゼルC96軍用拳銃で、張のものは最新型のアリサカType-41 9mm自動拳銃である。こちらも同じく譲り受けたものだ。

銃を預けてサーベルだけの身軽な姿になると、目の前の軍人、大日本帝国陸軍歩兵中尉・板垣征四郎は笑みを見せて二人を誘った。

「ご案内します、張作霖殿。」


「良く来たな。わざわざ来て貰って済まん。座りたまえよ。」

風采のいい軍人が愛想良く張の手を握る。

「なに、大佐のためなら海だって渡ってきますよ。」

「はは、嬉しいことをいってくれるじゃないか。」

張も、その手を握り返して笑みを返す。もちろん互いに社交辞令の混じった挨拶だが、それでもこういう持ち上げられ方は嫌いではない。今や旭日昇天の勢いである日本陸軍にあって、田中大佐はかなりの主流派中枢に属していると聞いた。いずれは軍の第一人者になるかも知れない人物に、実力を買われるのは悪い話ではない。

日本陸軍と張作霖の付き合いは、既に5年にわたって続いている。

その発端は、先の戦争の折りに命を救われたことに始まっている。

ロシア軍の手先として、日本軍の動向を通報したり後方を攪乱するために略奪などを行っていた張作霖は、日本軍の手によって捕縛された。危うく処刑される寸前に彼を助命してくれたのが、当時満州軍総参謀長であった児玉源太郎であり、その手となって彼を手助けしてくれたのが当時中佐であった田中義一である。彼らとの関係は、その後も続いていた。

張作霖の仕事は保険屋である。在郷有力者と契約して土地の安全を守り、兵隊崩れの匪賊を追い払い、あるいは保険料を払わない屯を襲ったり、他の保険屋の縄張りを荒らしたりもする。日本人は彼らのことを『馬賊』と呼ぶが、決して賊ではない。清の東三省総督にも認められた歴とした治安を預かる仕事である。

特に、北洋派の徐世昌が東三省総督に就いてからは、保険屋も政庁の警邏を請け負ったりしてなかなかに忙しくしていた。東三省総督は先年、錫良に変わったが、張の商売はさらに順調にいっていた。張は内蒙古方面にある鄭家屯を地盤として、奉天周辺に保険区を展開しており、手下の保険隊も1000人を越える大所帯となっている。

本来ならば、日本軍の呼び出しにホイホイと乗っている場合ではないのだが、そこはそれ、日本軍経由の仕事は政庁の仕事と違ってうまみが大きい。

仕事はほとんどの場合、重要人物の警護や道案内で、さして難しいことでもない。あるいは掠われた日本人や西洋人の捜索や匪賊に奪われた盗品の奪回などといった荒事もあるが、それは普段からやっている事である。

臨時の仕事なので、ほとんどが直ぐに現金で決済される。しかも、日本円かドル、あるいはポンドの支払いだ。場合によっては支度金を貰えたり、日本軍の武器を払い下げて貰えることさえある。保険隊の装備はその強さに直結するので、これはかなりありがたい。張の保険隊には、関東軍から払い下げを受けたオチキス式機関銃が3丁有り、彼の自慢の種であった。

「それで、今回はどんな話ですか。大佐殿。」

「ああ、実は。」

にこやかに田中大佐が話し出す。この男が『実は』で切り出す時は大抵厄介ごとだ。どうやら、今回は面倒なことになりそうだ。


大連の港で陸揚げを行っていた兵士達は、それまでの日本軍兵士とどこか違っていた。

第一に、装備がまるで違う。

身につけている軍服は、士官こそカーキと赤の軍装だが、それ以外の大多数、整列したり物資を運ぶ兵士は奇妙な服を着込んでいた。茶と砂色のまだら模様に染められた服はひどく不格好で、同じ色に染められた鉄兜と厚底の軍靴、そして薄茶色の背嚢と合わせてみると、軍隊というよりは浮浪者の群れに見えなくもない。

だが、手に持っている短めの小銃や機関銃、あるいは背に担いでいる1mほどの砲身のようなものはどれも初めて見るものだ。よく見ると小銃の銃身には、アリサカライフルの証明である桜の印が彫ってあった。となれば、あれが噂の新型銃か。

第二の相違点は、彼らが恐ろしくテキパキと動き、誰も彼もが鋭い目つきをしていることだ。

張にとって、あるいは清の人間にとって、軍隊というのは食い詰めた他に行き場のない人間がどうしようもなくなって身を落とすものだ。『兵匪』という言葉がある。兵隊崩れの匪賊のことだ。逆に、匪賊上がりの兵隊などというのも珍しくない。張自身も、貧しい生まれの中で生きるために食うために匪賊になり、上手く立ち回って保険隊の頭目に収まった。それは、匪賊上がりの兵隊とさして変わりがない。

そういった張の目からすると、徴兵されて戦うのに脱走も反乱も起こさず黙々と規則正しく動く日本兵は不気味な存在だ。しかも、今回の連中は輪をかけて動きが違う。よほど訓練された兵隊達らしい。張の保険隊は、彼らに同行して道案内や警戒に当たることになっていた。

「何者か!」

「関東軍参謀の板垣中尉だ。案内人を連れてきた。」

誰何の声と共に銃を携えた男達が、互いに連携するように周囲に警戒の目を向ける。

下手に手出しをすると、ただごとでは済まないだろう。景恵から部下どもを良く言い含めておく必要があるな。

「宇垣連隊長殿か、渡辺大隊長殿はいらっしゃるだろうか。」

「確認させます。誠に失礼ですが身分を確認できるものをお持ちですか。」

「認識票を見せるべきかも知れないが、出来れば東条か永田か石原を呼んでくれると助かる。」

板垣を、友軍の士官でも遠慮せずに誰何する兵士達の様子に、張は目を見開いた。


「待たせてすみませんね。ちょっとそこで知り合いに会ってしまいまして。」

15分ほど待たされて、漸く軍服姿青年が姿を現した。丸顔に人懐こそうな笑顔を浮かべた年若い男は、襟元に少尉の階級章を付けていた。どうやら新米士官らしい。

「石原。貴様、こんなところに知り合いなんているわけないだろう。言い訳も大概にしろよ。」

「いや、ホントなんですって板垣さん。陸士の同期で、今高田連隊にいる中村ってヤツがいましてね。あいつ、元々支那人で日本に留学に来てるんですが、いま丁度友人に会いに大連に来てまして。」

「ほんとかよ。……まぁいい、紹介するよ。張作霖殿。今回の匪賊討伐で、教導隊の案内を頼んである。」

「ああ、なるほどあなたが。噂は色々聞いてますよ。帝国陸軍近衛教導師団第一歩兵大隊の石原莞爾少尉です。よろしく。」

「……ええ、こちらこそよろしく。」

あけすけだが、何か意味ありげな笑顔に張は戸惑った。


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