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1910-04-26 Tuesday はつせの世界 第三章 2

事の起こりは、二隻の船が衝突したことに始まる。

1910年4月26日深更。場所は威海衛沖の黄海である。濃い霧の立ちこめる中、慎重な船足で北西へと向かう商船ジンジャーと、北東へ向かって16ノット以上の速度で進む装甲巡洋艦ブリュッヒャーとが交錯し、ジンジャーの左舷へブリュッヒャー衝角が突き刺さることとなった。

ブリュッヒャーは、1909年10月に就役したばかりの装甲巡洋艦である。15000tを越える艦型と21cm砲12門という重装備艦であり、主力艦に準ずるものとして期待されていた。だが、1904年の建造決定より1909年の就役までの間には、大きなパラダイムシフトがあった。1908年の艦隊法成立により、ドイツ海軍は従来の戦艦と装甲巡洋艦から、弩級戦艦巡洋戦艦へと舵を切ったのである。それ故に、装甲巡洋艦たるブリュッヒャーは就役時から既に旧式に類する船であったといえる。

それはともかく。ブリュッヒャーは習熟航海も兼ねて海外植民地を歴訪しており、現在は膠州湾の青島へと寄港中であった。

一方、英国籍の商船ジンジャーは、総トン数で2850t、乗組員18名の貨客船であり、香港を拠点に釜山、仁川、大連、蘇州、上海、マニラ、シンガポールなどを行き来している船である。決して大きな船とはいえないが、まだ建造後10年程度の船であり、船足も15ノットとそこそこ速いことからチャーター船や定期便船として活躍していた。

今回は、蘇州から仁川へと、朝鮮在留の英国企業向け物資を運んだ後、日本の商社から依頼された荷物と船客を乗せて大連へと向かっているところであった。

濃霧による視界の悪さもさることながら、ブリュッヒャーの不注意と船足の速さが主な要因であったと思われる。いずれにしろ、二隻は不幸な事に衝突した。

船型では旧式戦艦と肩を並べるほどの大きさであり、戦闘に耐えうる堅牢な構造を持つ新造装甲巡洋艦と、老朽とは言わないが遙かに小さな船型しか持たない商船とでは、どちらが大きな被害を受けるか明白であった。

衝突の後ほんの僅かな間に、ジンジャーは夜の黄海へと姿を消した。ブリュッヒャーは逆に、衝突の衝撃に当直が気付いて見回している間に、漸く舳先に沈みゆくマストを認めたのみであった。

さらに悪いことには、艦長レシング大佐はこの事実を無視し、艦内に箝口令を敷いた上で航海日誌にもこの事件を記載しなかった。その行動は非難されて然るべきであるが、それに至る要因は色々考え得る。一つにはドイツ海軍の練度の低さを露呈することを憚った可能性。一つには、相手船は恐らく支那あるいは日本の船であり、揉めるような相手ではないと思われること。だが、最も指摘されるべきは、ドイツ海軍が歴史の浅い組織であり、シーマンシップの錬成に悖る部分があった点と、アジア人全体への蔑視が拭いがたく存在していた点であろう。

艦首の衝角によって哀れな犠牲を海に捧げたブリュッヒャーは、そのまま黄海の闇の帳に姿を消した。


ボートの破片にしがみついていた生存者、ジンジャーの乗組員ジャック・ケシャム二等航海士と、船客一名が通りがかった貨物船・泉州丸に救助されたのは翌朝8時過ぎのことであった。その他の乗組員や船客は見あたらず、その生存は絶望と見られた。ケシャム航海士は衰弱が激しかったが、船が衝突し相手の船が救助もせずにそのまま通り過ぎたことを伝えた。そして、決定的な証言をしたのは船客であった。

「船上からドイツ語が聞こえた。『当直士官に知らせろ』と言っていたので、恐らくドイツ海軍の船に違いなかろう。」

静かに怒りを湛えた表情で伝えたこの船客は、陸軍大学校生徒であり、関東軍司令部附き参謀士官であった。28歳の理知的な歩兵中尉である彼は、名を梅津美治郎といった。


平時でさえ、このような国際法規に反する上人倫に悖る行為は声高に非難されるであろう。

しかし、事はそれだけでは済まなかった。

被害にあったジンジャーが英国籍であり、乗組員の半数近くが英国人であったことから、英国ではこの事件を大きく取り上げた。連日新聞で一面記事をこの事件に関する報道が飾り、梅津の証言や現地膠州湾の中国人労働者から伝えられた情報(ブリュッヒャーの艦首に傷がある、乗組員が禁足されているなど)が大きな関心を呼んだ。

また、船客五名のうち四名が行方不明となり、その二人が帝国陸軍士官であったことから、日本でもこの事件は大きな怒りを買った。元より先の三国干渉によって日本におけるドイツの世評は最悪に近かった。比較的ドイツと親しい陸軍も、今回は直接の被害者であることから擁護することも出来ない。

さらに、残り二名の船客は米国人の旅行者であった。満州におけるビジネスのために訪れていた資産家と満州で活動する現地コーディネーターの二人組である。関東州及び南満州太平洋鉄道付託地を中心とした「日本の勢力範囲」では、英米の資本家を中心に優遇措置を設けてその誘致に力を入れている。こういった経済活動で満州を訪れる事業家の他、そういった事業の護衛を行う傭兵や、一攫千金を夢見て渡航してくる欧米人も少なくない。

従って、米国でも南満州での経済活動はフィリピン以上に注目度が高く、ドイツへの非難の声は必然的に高くなった。


これら三国からの反発の背景には、当然ながら建艦競争による互いの反目もあった。

ドイツ海軍は、1898年、1900年、1908年と成立した艦隊法によってひたすら強化されてきた。皇帝ヴィルヘルム二世と海軍大臣ティルピッツの熱意は、祖国防衛から植民地獲得、そして世界第一位の海軍国大英帝国への挑戦へとその規模を大きくしていた。

世界の海軍に衝撃を与えたドレッドノート、インヴィンシブル、そして安芸と筑波、いわゆるドレッドノートスタイルの戦艦が相次いで竣工したのは1906年から1908年の間である。

1906年の時点で、ドイツ大海艦隊(Die Hoch See Flotte)は22隻の旧式戦艦を所有していた。これは、43隻を保有する英国海軍の5割を超える数であり、二国標準を唱える英国海軍にとって無視し得る数字ではなかった。だからこそ、ドレッドノートが産まれたともいえる。単純な数の優位ではいずれ追いつかれる可能性を危惧したのだ。

ドイツ海軍は、1908年まで戦艦の建造を停止し、様子を見ていた。その間に、英国ではドレッドノート、ベレロフォン、シュパーブ、テメレーア、インヴィンシブル、インドーミタブル、インフレキシブルの七隻が就役している。ドイツ海軍は、これに遅れじと1911年までに11隻の弩級戦艦を建造する大艦隊建設の方針を打ち出した。

これに対して、英国も即座に弩級戦艦の八隻追加建造を決定し、建艦競争は新たなフェーズへと突入していた。

また同じく、日本とアメリカも弩級戦艦の建造を進めており、海軍を巡る敵愾心は、中国の利権を巡る勢力争いと直結しつつあった。


日英米三国は、共同してドイツ海軍の不法行為を糾弾し、青島に停泊中の装甲巡洋艦ブリュッヒャーへの乗り込み調査と艦長以下士官の尋問を要求した。そして、膠州湾には即座に大日本帝国海軍の戦艦四隻が派遣された。安芸、相模、鞍馬、伊吹の四隻である。

この強圧的な態度にドイツ海軍も態度を硬化させたが、英国海軍が戦艦四隻、アメリカ海軍も同じく戦艦四隻の派遣を決め、さらには英国海軍が本国艦隊の出師準備を下令するに至って折れざるを得なかった。

大連で行われた会議では、ドイツによる船主や死者への金銭的補償が取り決められる他、ドイツ東洋艦隊の増強をこれ以上行わない旨取り決められた。もちろん、東洋艦隊についての取り決めが守られるとは誰一人として思ってはいなかったが、それでも外交的なポイントを稼いだことには違いなかった。

英独の対立はなお深まり、英国を支持する日米という構図はより明確になったといえるだろう。

ドイツは、ヨーロッパでは英仏に対して*1、アジアでは日米英と相対することとなり、経済的な繁栄と相反するように世界の中で孤立を深めていくこととなる。


>第三章 3

*1:ロシアの動向はこの段階ではまだ不明確であった