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1906-11-13 Tuesday はつせの世界 第二章 10

「いよいよ開業ですな。」

朗らかに笑うエドワード・ハリマンの長身を見上げて、根津嘉一郎もまた笑みを浮かべていた。横に立つ、後藤新平と雨宮敬次郎もまた、晴れの日に相応しい喜色を浮かべ、声高に談笑している。

旅順駅のホームにとまった葡萄茶色の機関車は、いよいよ長春へ向けて走り出そうと、その流線型の胴体に次第に高まる蒸気を蓄えつつ発車の合図を待ちかまえている。

この未来的な形状をもった弾丸列車は、アメリカン・ロコモーティブ社の最新型列車であり、他ならぬハリマンの尽力でこの満州まで運ばれてきた列車である。本来であれば、合衆国国内の横断鉄道に使われるべき車両であり、こんなアジアの端に姿を見せるような代物ではない。その姿一つとっても、この鉄道にかけるハリマン、そしてクーン・ローブ・グループの意気込みが見えるようで、頼もしくもありまた、空恐ろしくもある。

今はご機嫌のこの合衆国人が、その実気宇壮大かつ誇大妄想的であり、実に執念深いことは、根津もこの半年ほどで嫌と言うほど思い知らされていた。清朝の役人を自称する軍閥や武装勢力の代表者―その実態は山賊の頭目とさして変わらない―を時に金払い良く、時に日本軍と米人の私兵を使って脅し、山積する問題を粘り強く潰していく。ハリマンと彼の部下達が居なければ、この南満州太平洋鉄道(South Manchuria Pacific Railways Co.)の開業はさらに遅れたに違いない。


南満州太平洋鉄道は、クーン・ローブ商会が50%、富国鉄道が50%の出資比率で設立した合資会社である。クーン・ローブ商会はアメリカ合衆国に本拠をもつ銀行であり、言うまでもなく鉄道王エド・ハリマンのほかジェイコブ・シフなどが属する財閥の中心企業である。一方の富国鉄道は、鉄道国有化によって事業を奪われた私鉄経営者の共同出資会社であり、その資金の3割近くは帝国鉄道院と、新たに大連に庁舎を構えた外地政庁である関東庁から出ている。事実上、日本とアメリカの合作国策会社である。

こういった構図になった背景には、昨年7月に先の首相・桂太郎と米陸軍長官・タフトとの間に交わされた合意と、この3月に成立した鉄道国有法とがある。

ハリマンは、この桂・タフト協約に沿って昨年10月に来日し、南満州における日本権益下の鉄道を共同出資の下に経営する旨を桂太郎と取り交わしている。また、鉄道沿線の開発にも米国資本からの優先的融資を充てることでも合意していた。


一方、日本の鉄道経営者は前々よりくすぶっていた鉄道国有化議論が決着し、その手の内にあるほとんどの鉄道路線を国に収容されることとなってしまっていた。明治39年3月成立の鉄道国有法によって私鉄経営企業32社が国に買収され、帝国鉄道院によって管理される事態となったのである。この決定は速やかに実行され、4月に設立された鉄道院は、この10月までに北海道炭礦鉄道、日本鉄道をはじめとした主要17社の買収を終え、残り15社についても4割方の買収が済んでいる。そして11月より日本国有鉄道公社として「国有鉄道」は既に活動を開始していた。

そして、その最初の事業は東海道本線の完全複線化と標準軌化である。そこで使用する機関車は、米国製のものを導入し、ライセンス契約によって国産化する方法を採ることとなっている。この導入指導は、ハリマンの口利きでスムーズに決まっていた。

その後は、東北本線、山陽本線の完全複線化と標準軌化、さらには津軽海峡や下関海峡などの本州と北海道・九州・四国を結ぶ鉄道フェリーの整備、さらには関門海峡トンネルや清水トンネルなどの開削も計画されていた。


そのように、日本国内の主要幹線鉄道が整備に追われているため、逆に言えば朝鮮と満州の鉄道については鉄道院の手が回らず、南満州太平洋鉄道会社は完全に独立した機構として動くこととなっていた。また、鉄道国有化によって多くの企業家が鉄道という事業から追い出される形となった。満州の鉄道は、その受け皿ともなったのである。

南満州太平洋鉄道の社長は、東武鉄道の経営者である根津嘉一郎が引き受けた。それ以外にも、私鉄経営者のなかから幾人かが南満州太平洋鉄道に籍を移している。そこへ、最高顧問兼監査役としてハリマンが派遣される構図となっている。しかし、実際のところは資金及び全体のプランはハリマンが統括しており、そのうち鉄道運行準備のみを根津達が担当していた。

実のところ、南満州太平洋鉄道の新規開業はそれだけでも十分な難事であった。

まず、軌条幅の改変事業がある。本来、東清鉄道支線に当たる長春旅順間はシベリア鉄道と同様、広軌(1542mm)を採用していた。しかし、日露戦争中に陸軍は、日本国内から運んできた列車を軍用輸送に使用するため、国内と同じ狭軌(1067mm)へと改めていたのである。それを今度は、米国の規格に習って標準軌(1435mm)へと再び変更する必要があった。これは、朝鮮国内や中国国内でも多くの線路は標準軌で建設されており、それと共通化する狙いがあり、同時に輸送量の強化や米英国製の機関車をそのまま運行できるメリットもあった。

また、鉄道付属地の整備と治安維持もまた、南満州太平洋鉄道が気を配らなくてはならない。実際には、付属地の施設整備(駅舎やホテルなど)は南満州太平洋鉄道の職掌であったが、その沿線から伸びる支線と鉱山設備は別会社・満朝鉱山鉄道が一手に引き受けることとなっていた。こちらもまた鉄道院の出資と英国資本の融資で設立され、私鉄経営者であり根津の盟友である雨宮敬次郎が社長に就任していた。

そして、彼らの事業を背後から支援しているのが、清からの租借地となった関東州の行政府・関東庁の長官となった後藤新平。そして関東州派遣軍の参謀長・青木宣純少将であった。

後藤と青木の行った様々な政策や工作により、南満州太平洋鉄道の付属地から満州へと染み渡るように、日本及び米英の資本が浸透していくこととなる。資本によって資源が開発され、資源によって製品が作られる。そのサイクルが次第に回転をはじめ、南満州が中国でも随一の発展地域となり、やがては中国という帰属意識からも乖離するほどの進歩を見せることになるが、それは明治39年の段階では微かな希望の萌芽に過ぎない。


ハリマンが手元のテープを鋏で切り落とすと、冷えた旅順の空気にファンファーレが響き渡り、同時に放された白いハトの群れが上空を舞った。

高い汽笛の音が長々と引き、ゴトンという重々しい音と共に、「あじあ号」はその巨体を前進させ始めた。

「『世界鉄道』の足がかりですな。」

「ええ。我がグループは、マンチュリアを足がかりにユーラシア大陸へと進出していきます。いずれは大陸を横断する鉄道を手に入れますよ。」

子供のような目で野心を語るハリマンは、にこやかに「ぜひご協力下さい」と日本人達に手を差し出した。

『当分の間、米英を中国大陸に関与させ続ける。』

その目的にとって、ハリマンほど適した人物は居ない。

「こちらこそ、是非これからもお力添え下さい。」

その大きな手を握りながら、後藤は頷いた。


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