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1906-07-03 Tuesday はつせの世界 第二章 8

井上馨渋沢栄一の付き合いは、新政府発足後の大蔵省時代以来のものである。

大久保や大隈と対立して渋沢が下野して以降は、官界・財界と舞台は違えど日本経済の発展に協力して取り組んできた。

井上の実績については述べるまでもないだろう。

長州の維新志士として世に出、明治期からは元勲の一人として国務に携わった。外務大臣として条約改正に取り組んで鹿鳴館時代を築き、大蔵大臣としては金本位制の確立にも勤めた。維新政府初期から財政問題のエキスパートとしてその業績を重ねてきた。

渋沢の実績もまた、日本の財界を語る上で決して外せない。

商工会議所・東京証券取引所や第一国立銀行の設立、あるいは東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、帝国ホテルなど、手がけた事業は枚挙に暇がない。また、教育機関の設立にも熱心であり、間違いなく明治以降の日本社会の基盤を築いた人物の一人である。

この二人にとって、明治39年における喫緊の問題は、間違いなく財政の再建である。

戦時であり国家存亡の危機であるとは言え、ロシアとの戦争はあまりに政府財政を、ひいては日本の経済全体を大きく圧迫した。戦時外債約8億円。その償還に必要とされる金額は利子を含めると国家予算2年分を凌ぐ負担となる。

また、日本の勢力圏に明確に組み込まれた地域、朝鮮半島と関東州、さらには日本の影響下にあると見なされる南満州においても、その権益の配当を受けるには更なる資本投下が必要となる。

加えて、陸海軍ともに再編と研究、装備変更など金の掛かる事に手を付け始めた。結果として国家財政は逼迫しまさに危機的状況にある。

単純に考えれば、これらの支出は短期的に見て増税で賄う他はない。

しかし、単に増税で歳入を増やしたところで、それはあくまで一時しのぎに過ぎない。やはり、根本的に産業規模を大きく成長させ結果として税収を向上させる他はない。そのためには元手となる資本が必要となるが、外債を売れるだけ売ってしまった今、日本政府は借金すら出来ないのだ。

「正価準備高の規模拡大、大陸へ英米資本を導入して肩代わり、そして赤字国債発行か。」

井上馨は、渋い顔で手元の書類を眺めた。その中には、今後の世界経済動向予測と、それに基づいた財政全般の方針案がまとめてある。紙は白く漂白された大判のもので、そこにはカラー印刷された図表や文章が載せられている。当然出所はこの時代の省庁などではあり得ない。

「我々はいままで、出来る限り民間に出来ることは民間に任せてきた。それを変えろということだね。」

書類から目を上げた渋沢もまた、苦い表情で彼女を見た。僅かな幾何学文様の入った整った顔。白い軍服に身を包んだ『彼女』は、微笑みを浮かべたまま静かに頷いた。

「確かに、資本主義、あるいは市場経済主義のあるべき姿は『神の見えざる手』に可能な限り委ねることにあるでしょう。」

ですが、とはつせ001は言葉を切った。

「それは十分な社会基盤が出来ている前提での話です。残念ながら、大日本帝国は教育・金融制度・エネルギー網・交通網、あるいは情報網といった社会資本が十分に揃っているとは言い難い状況です。少なくとも、我々がご提供できる技術を十分に生かすには至っていません。」

だからこそ、十分に産業が育成されるまでの期間、政府主導による社会資本整備を行い更なる産業振興に努めた方が効果的だ。彼女はそう言葉を結んだ。

「確かに産業振興は必要だし、そのために金融を通して政府主導の経済政策を推し進めることにも異存はない。だがね。なにも財政が一際苦しいこの状況で徒に借財を増やすのは危険ではないか。」

席に着いていた大蔵大臣の阪谷芳郎が危惧を口にする。彼は、井上や渋沢よりも比較的計画経済寄りの持論を持っており、提示された案にも大方針では支持を示している。

「いや。むしろ今が金の借り時です。どうせ博奕をするならば種銭は大きい方がいい。」

そういって丸顔に不敵な笑みを浮かべたのは、日銀副総裁から大蔵次官に就任した高橋是清であった。

「それに、彼らの予想を過信するわけではありませんが、我々がこれから手がける『産業振興』は、技術的に既に確立しているものを導入するだけのことです。海のものとも山のものともつかぬ技術を一から模索するわけではない。であれば、自由競争が活発であるかどうかよりも、他国に先駆けた産業として如何に早く根付かせるかを考えるべきです。」

高橋は、熱心に言葉を重ねた後、明治初期に欧米から技術を導入したときと何ら変わらないでしょう、と加えた。

そこに、渋沢が反駁する。

「しかし、今度ばかりは官営工場を三井や三菱に払い下げてどうこうというわけにも行かないでしょう。それに、大財閥ばかりが栄えても我が国自体が栄えるとは言えない。社会基盤整備を政府が主導するのも、産業育成を助成するのも異論はありませんが、国営企業は払い下げを前提としても作るべきではないですな。これは満州・朝鮮を含めた話です。」

あくまで可能な限り民間にやらせる、その姿勢を崩すべきではないというのが渋沢の態度だった。

「朝鮮も満州も、ひとまず鉄道と鉱山・油田以外は必死に確保する必要はないさ。あとは欧米に好きにやって貰おう。それより国内の方がずっと先だ。」

井上が、渋沢の発言を受けて続ける。

「大財閥には鉱山を、油田は半官半民の帝国石油にやらせる。電力網も半官半民の帝国電力だな。鉄道は官営化が済んだところだし、暫くは民営化よりも鉄道網整備に専念させる。道路の方は逓信省だが、道路局を独立させるんだったな。」

それでも国が色々やりすぎだが。そう、渋面の口元をひき結ぶ井上。

「政府の金の使い道の方はそれでかまいません。新産業の方も、大河内組がなんとかするでしょう。既にいくつか新産業の計画が出てきています。化学繊維と化学肥料を主として進めるつもりで調整しています。」

そして、いずれは自動車と航空機、そして電機・半導体製品を目指す。渋沢が将来像へと話を進めようとしたところで、高橋が咳払いして割り込んだ。

「それより、今は金融政策です。」

高橋の指摘に他の三者も頷いた。

「資金は菱刈の金を基盤として正価準備高を増やします。これで、赤字国債発行による動揺を押さえることが出来るでしょう。ただ、実質的な物価は注視しなくてはなりませんが。」

だるま顔に真剣な表情を湛えて高橋は続ける。

それを受けて、阪谷蔵相が提案書の文面を確認する。

「増税と通貨発行量の増加した分に加えて、赤字国債の発行で来年度予算は約1.8倍の規模まで膨らますことが出来ます。これを鉄道・道路等の建設、鉱工業および大規模農業への助成金に充てます。いつまでも、軍艦売却による臨時歳入に寄りかかっているわけにはいきませんので。」

実際、明治39年の特別予算は、ほぼロシア戦艦売却で賄われていた。

「この計画書では、明治48年の国家予算規模は117~131億円。予算上は10年で17~19倍、実質経済成長では22~27倍を目指すことになります。数字だけではにわかに信じがたいですが、何しろ、先だっての試算を見事的中されてしまいましたので。」

信じる他ないですな。そういって、阪谷は微笑と苦笑の入り交じった半笑いを浮かべた。

はつせ001からこの提案を最初に受け取った段階で、彼らは経済予測の数字を信じることが出来なかった。そこで、はつせ001は2ヶ月後の米価を推測してみせると主張した。その予測は惜しくも僅か1厘外れたが、かなり正確な予測が可能であることを示していた。

「いっそ、政府が相場で儲けたらどうだね。」

そう、井上が笑うと、はつせ001は静かな笑みを浮かべて言葉を返した。

「やり過ぎると国が傾きますので、自重しております。」

その答えに、一同4人は力のない笑い声を漏らした。



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