はつせの世界 このページをアンテナに追加 RSSフィード

1905-10-02 Monday はつせの世界第1章 7.5

横須賀を出航して3日。帝国海軍巡洋艦千代田では、妙な噂が流行り始めていた。

『船内で女の子の声がする。』

というのである。

曰く、

『もの悲しげに歌う幼子の声を聞いた』

だの

『くすくすと笑う少女の声が聞こえてきた』

だのと、怪談にしては今少し迫力がない。

言うまでもなく、帝国海軍に女性の乗組員は居ないし、今回の出航では数人のゲストを乗せてはいるが、子連れで乗り込むような乗客も居ない。

最初、その噂を分隊の兵曹長から聞き及んだ及川少尉は、何を馬鹿なと笑い飛ばした。が、その直後、ゲストに宛がったキャビン前の警備に立った時に耳してしまったのだ。その、声を。

「――の~い~ろ~はぁ~」

微かに響いてきた高い声にビクリと背筋が震えた。聞き間違えかと思ったが、声はまだ聞こえてくる。

「う~つ~り~に~け~り~な――」

間違いなく、少女の声だった。幽霊や物の怪など決して信じては居ない及川少尉であったが、現実に透明感のある澄んだ声音が聞こえてくると、なにやら『水妖記』のオンディーヌでも出たのではあるまいかと足がすくむ。

「き、きっと何かの間違いだ。ああ、そうさ。軍艦の中に女の子が居るわけ無いじゃないか。はっはっはっ!」

空元気で自分を笑い飛ばそうと大声を出してみる。うん、元気が出てきたぞ。

その声が打ち消したのか、物憂げな幼子の声はふっとかき消えた。及川少尉はほっと、息をついた。

そのとき、キャビンの扉がすっと開いた。

「騒々しい。何事じゃ。」

そこには、おかっぱ髪の洋服の少女が立っていた。整った愛らしい顔立ちに、不興げな表情を浮かべて及川少尉を見上げていた。

「で、でたぁっ」

「海軍士官が軽々しく狼狽えるでない!みっともないであろ!」

「はっ、はいっ!」

悲鳴が出かかった瞬間、幼子が一喝した。及川少尉は、反射的に不動直立の姿勢を取っていた。

「そなた、名は?」

「て、帝国海軍少尉、及川古志郎であります!」

「ふむ。こんな宵の入りに騒ぎ立てては他の皆様のご迷惑であろう。ひとまず船室にはいるが良い。」

「は、はぁ」

「なに、レディの寝室とはいえ、私が招き入れるのだ。遠慮は無用。早く入るがよい。」

「は、はぁ。」

「何か不服か?」

圧倒的な威厳をもって見上げている目の前のちんまりとした少女に、及川少尉は当惑した視線を返した。

「あなた様は一体どなた様で?」

「私は柚宮裕子じゃ。さ、早う中に入れ。」

さも当然のように振る舞う幼子に誘われて、狐に摘まれたような表情で及川少尉がキャビンの中にはいると、椅子に座った洋装の青年が苦笑しながら迎えてくれた。

「すまないね。」

千代田の賓客中、最も高位の人物。皇太子明宮嘉仁親王であった。


子煩悩の皇太子に、黙っていてくれと頼まれたが、それから1時間も経たずに皇太子の長女が密航していたことが伝わり、狭いキャビンにはさらに2名の人物が押しかけていた。

千代田艦長の村上格一大佐と、舞鶴鎮守府長官から転出してはつせ駐在代表団の長を勤めることとなった日高壮之丞中将である。

「殿下。いつ柚宮様にお気づきになったのですか。」

「出航した日の夜ですよ。荷物の中で寝ていました。」

日高中将が静かに問いただすと、嘉仁親王はいささか決まり悪げに答えた。

「幾ら荷物が多いとは言え、人ひとり入っていれば誰か気づきそうなものだが。」

村上艦長がぼやく。

「私の隠れ方が上手かっただけの話じゃ。乗組員を責めてはいかんぞ、艦長。」

胸を張って主張する女宮のある意味立派な様子を見て、村上艦長の肩はさらに落ちた。

(なお、千代田乗組員の名誉のために付け加えると、従卒に選ばれた水兵達は重くて時折動く奇妙な鞄に気づいていたが、皇太子殿下の荷物だけに言い出せなかったのである。)

「裕子さん。大人の話に口を挟んではいけませんよ。」

父親が窘める、というよりも生意気な様子が可愛くて仕方がないと愛でるような声音に、柚宮裕子内親王はにっこりと笑って「失礼いたしました。」と頭を下げた。

もっとも、所作の割に悪びれた様子もなく、既にしもべのように扱い始めた及川少尉に説教を再開した。

「そなたは実に要領が悪いの。私が菓子を持ってこいと言ったら、ちゃんと自分で酒保からくすねてくればよいのじゃ。従卒を呼ぶなぞ以ての外じゃ。バレるに決まっておろうが。」

「そ、そんな。くすねるなんて出来ませんよ。」

その様子を微笑ましく見守る若者と、溜め息混じりに眺める軍人二人。

「『乙姫』との会同間近ですので、今さら引き返す訳にもまいりません。柚宮様にもご同行いただく他ございませんな。」

日高がしかめっ面で告げると、皇太子は嬉しげに頷いた。

「ありがとう。裕子さんは一度決めたことはなかなか曲げない人なので、わたしも説得する自信がありませんから。」

「では、私は横須賀と赤煉瓦に電文を打っておきます。」

帽子をかぶりながら村上艦長は腰を上げた。

「『乙姫』にも連絡してくれんか。」

「あっちは不要ですよ。どういうわけかこちらの電文は全て傍受してますので。」

肩を竦めつつ言う村上艦長に、日高はますます眉間のしわを深めた。


>第一章 8