はつせの世界 このページをアンテナに追加 RSSフィード

1905-09-06 Wednesday はつせの世界 第一章 7

浜離宮の一室で、神田頼子は新聞を取り上げた。数紙の朝刊が届けられていたが、一番上にあったのは『東京日々新聞』である。

「『天皇陛下ヨリ慰撫ノ詔書ヲ賜ル』『帝國臣民ハ隠忍ヲ持ツテ艱難辛苦ニ耐エンコトヲ欲ス』ねぇ。これで収まるのかしら。」

頼子の手元を覗き込んだひゅうが001が、疑問に満ちた声でその内容を読み上げた。

「『朕、忠賢ニシテ精勤ナル帝國臣民ニ告ク。露国トノ今時大戦ニ於ヒテ和ヲ求ムルニ、朕ハ臣民ノ払イタル尋常為ラザル犠牲ヲ憂ヒ、臣民ノ更ナル塗炭ノ苦衷ヲ憂フ。』」

これは、昨日発生した、ポーツマス講和条約に反対する集会から拡大した暴動、日比谷焼き討ち事件の収拾のために伊藤博文桂太郎が打った手だった。

今上天皇による直筆詔書が、宮内大臣田中光顕および内大臣徳大寺実則によって公表された。これは、天皇による帝國臣民へ初めて直接下された詔書であり、無類の国難にあって、天皇陛下がいかに臣民の犠牲に心を痛めておられるか示されたものであった。同時に、苦難の時局にあって更なる忍耐を訴えるものでもあった。

「もちろん、事態は収まるとは思いますけれど。同時に後々問題にもなるでしょうね。」

はつせ001が、ひゅうが001の疑問を受けて答える。

「本来であれば立憲政治の根幹を揺るがす事態ですもの。『君臨すれども統治せず』の原則を曲げられた陛下が責めを負うだけでなく……」

「桂もいずれ引責して辞めねばならんだろうな。聖帝のご意志を利用して時局を治めんとするは不遜千万、とかなんとか言い出す輩が居るだろうさ。」

扉からノックもなく入り込んだ老人が、苦笑しながら台詞の続きを奪った。

伊藤博文である。続いて、井上馨松方正義、最後に山県有朋が入ってきた。

井上と松方は、伊藤と同様苦笑混じりの微笑を浮かべていたが、山県一人は苦虫を噛み潰したような渋面で憤然と部屋に入ってきた。

「いきなりお邪魔して済まんね。ちと、相談したいことがあってね。」

伊藤が勝手知ったる様子で椅子を引っ張り出して座る。他の三人も、思い思いの場所に椅子に座った。

「かまいません。もう慣れましたから。」

神田頼子が、こちらも微苦笑で応える。実際、ここ数日は元老四人が入れ替わり立ち替わり浜離宮を訪れていたので、今更驚かなくなっていた。

「桂が辞めるのは致し方有るまい。だが、代わりの総理大臣が西園寺というのはどうにも、な。」

「他に腹案があるわけでもあるまいよ。桂君には他にもやってもらう仕事があることだし。」

ぶつぶつ言う山県を松方が宥める。山県は、西園寺公望がどうもお気に召さない様子である。

「それはともかく。皇太子殿下の事だが……」

伊藤が話を切り出す。

ここ数日の会合の中で、現皇太子嘉仁親王、つまりは後の大正天皇の話題が出ていた。嘉仁親王は幼い頃に髄膜炎を患い、回復した後も虚弱体質であったため、健康上の問題から学習院を中退されるなどしていた。1900年のご成婚後は健康も回復しつつあるが、出来うることならば未来の進歩した医学で嘉仁親王の健康問題を解決できないか、という話であった。

「今上陛下がご健勝であるからには今はまだ心配はないが、もしもご即位ということになれば、玉体に傷をお付けするような施術は叶わなくなる。ひとまず一度、殿下の検診をしてもらえまいかと、儂も田中も、御上も考えているのだが。」

「簡単な診断でしたら手持ちの機材で可能ですが、本格的な診療となりますと、艦にお出で戴かなくては難しいかと。」

「殿下には田中伯爵から話を通してもらう。近いうちに一度お目にかかれるよう手配するので、宜しく頼む。」

「ええ。児玉大将以下の皆様と同便でいらしていただけると都合がよいのですが、ひとまずは簡易検診だけでも。」

はつせ001と伊藤が話し込む一方で、井上馨とひゅうが001も言葉を交わしていた。

渋沢栄一さん、大倉喜八郎さん、岩崎弥之助さん、藤岡市助さん、川崎正蔵さん……すごいってばすごい顔ぶれですけど、なんかその……」

「何か不味いかね?」

言いよどむひゅうが001に、井上は朗らかに返答する。

「皆さん結構なお年ですし、立場もお持ちの方ですよね?長期間の船上生活を強いても大丈夫なもんですか?」

「なに、誰も彼も、洋行するとなればひと月ふた月の船旅に耐えられる男ばかりだ。心配はいらんさ。」

「そうすか。ま、そう仰るなら。それで、順番はどうされるんでしょ。」

「まずは渋沢からだな。」

「わっかりました。んでは渋沢さんですね。」

ひゅうが001と井上は、軽妙なやりとりをポンポンと投げ合いながら、はつせ乗り込みの民間枠について人選をしていたようだ。その後も主に経済面の相談を進めている。

そして。

「そんなことになったとは。……ワシは、間違っていたのだろうか。」

「いえ、山県閣下お一人の責任ではありませんよ。そ、それに、今からなら、まだまだ陸軍のために出来ることがいっぱいありますって!」

「そうだろうか。」

「もちろんそうですって!昭和天皇陛下も、『山県がいたらこんな事には為らなかった』って手紙に書いてたそうですから!」

「ほんとうか、それは?」

「モチのロンですって!元気出してください!私もお手伝いしますから!」

神田頼子と山県有朋の間には、時代を超えた友情(?)が芽生えつつあった。

「ところで、昭和天皇陛下とは、今上帝の御嫡孫に当たるのか?」

「えっと、明治天皇陛下のお孫さんだったかと?」

あやふやな記憶を辿る頼子に、横から助け船が入る。

「皇太子嘉仁親王殿下のご長子、迪宮裕仁親王殿下の事です。我々の歴史では1926年にご践祚なされ、第124代天皇となられました。」

はつせ001の補足が入るが、山県以下四人の元老は狐に摘まれたような表情を見せるばかりだった。

「迪宮裕仁親王……淳宮様でも光宮様でもないのか?」

「その方はいつお生まれになったのだ。」

「1901年ですから、明治34年のお生まれになります。今年で4歳になられるかと。」

元老達は、互いの顔を見合わせた。

「……柚宮様か?」

「だろう、なぁ。」

「ゆずのみや、様ですか?誰?」

松方と井上のつぶやきに、ひゅうが001がツッコミを入れる。

「東宮のご長姉は、柚宮裕子内親王殿下だ。女宮様なのだ。」

山県の回答に、座の空気は一瞬にして凍り付いた。


>第一章 7.5