はつせの世界 このページをアンテナに追加 RSSフィード

1905-08-07 Monday はつせの世界 第一章 4.5

ウスリー湾を望む空の一隅に、微かに周囲と異なるシルエットが浮かんでいる。

シルエットの後ろ側にはほんの微かながら、排気が白い飛行機雲となって続いている。シルエットの外形は、ほとんど肉眼で判別することはできない。それは、光学処理によって背景を遮らずに機体に映し出す、ELパネル光学式迷彩による効果である。

はつせ艦載機、UAV-12VSアルバトロスが、眼下の光景を見下ろしていた。

前方左側10時方面には、ムラヴィヨフ・アムールスキー半島とポポフ島の海岸線が見える。アムール湾に続く狭隘な水路の右手には、大規模な都市の姿。

ウラジオストク

旅順に次ぐ、あるいはそれをも上回るとされる、ロシア帝国の極東最大の都市である。

その海岸線を迂回するようにして、20数隻の輸送船が北へと進んでいく。それを護衛する4隻の装甲巡洋艦と、同じく巡洋艦4隻も、輸送船団の前を進み、盛んに黒煙を吐き出している。その進む先は半島の付け根部分の海岸である

夏の眩しい太陽に照らされてキラキラと輝くアムール湾、そしてウラジオストクの町並み。そこに迫る大船団の黒煙。

それは、大日本帝国およびロシア帝国の間に励起した戦争の行方に決定的な局面をもたらす光景であった。

そして同時に。

未来からやってきた人ならざる存在達にとって、歴史が回避しようのない蛇行を始めたその証となる光景でもあった。


1905年2月後半から3月上旬にかけて生起した奉天会戦の後、帝国陸軍は鉄嶺までの東清鉄道を確保した後、ほぼすべての活動を中断した。

奉天を喪失した極東ロシア軍は、公主嶺までの後退を余儀なくされたが、それでも帝国陸軍に十分対抗しうるだけの兵員と弾薬・糧秣を備えていた。

一方、帝国陸軍はそれを追撃するだけの余裕を全く持っていなかった。

沙河、遼陽、そして奉天でも、帝国陸軍の戦略はただ一つ。全戦力の集中投入である。

大博打に似たその戦略は、立て続けの勝利をもたらしたが、同時に夥しい数の損耗ももたらした。戦死者6万人以上、戦病死者2万人以上、戦傷および戦病による後送39万人以上。奉天会戦だけでも、全兵員25万人弱のうち戦死傷者は7万人を超えた。実に3割近い損耗率である。加えて、延びきった補給線、不足する物資、特に弾薬不足は危機的状況であった。

帝国陸軍は、極東ロシア軍の兵員補充と弾薬備蓄が進む事態を、ただ座視することしかできなかったのである。

鉄嶺で停止した満州総軍をそのままに、帝国陸軍は二つの手を打った。

まず、編成したての第13師団をして、樺太を占領させた。

これは、和平の斡旋を依頼したセオドア・ルーズベルト米国大統領の示唆に基づくものであり、開戦直後より樺太占領を主張していた長岡外史陸軍参謀次長が音頭を取った。

また、韓国駐剳軍から後備第2師団が抽出され韓露国境の会寧付近まで進出した。これは、朝鮮北部での極東ロシア軍の反攻を警戒し、日本の覇権版図を防衛する目的であった。

樺太全島の占領が完了したのは7月末。

その後、樺太の防備に独立一個旅団を残して、第13師団はさらに新たな上陸戦に投入されることとなった。

月も明けて1905年8月2日。

後備第2師団と合流した鴨緑江軍(第11師団、後備第1師団および後備歩兵第16旅団)は、豆満江軍と名を改め、豆満江を渡河した。

これに先立つ8月1日には、青木宣純大佐指揮下の不正規部隊が、それまでの攻撃目標であった斉斉哈爾(チチハル)の松花江鉄橋ではなく、哈爾浜(ハルピン)以東のシベリア鉄道本線に襲撃を開始した。その主力は、実際には日本軍から援助を受けた馮麟閣・金寿山などのいわゆる満州馬賊であった。これは、それ以前の破壊工作などで奉天-哈爾浜間の東清鉄道、あるいは満州里-哈爾浜間の防衛に神経を払っていた極東ロシア軍の虚を突くことになる。哈爾浜以東のシベリア鉄道は一時的に機能を喪失した。

そして、8月7日。

第13師団および新編成の第14師団、第15師団がムラヴィヨフ・アムールスキー半島の付け根付近に上陸を始めた。

また、豆満江軍も琿春で撃破したロシア軍を追って北上し、アムール湾を挟んでウラジオストクを対岸に望む地点まで進出していた。

8月11日。

前哨拠点を制圧した帝国陸軍は、極東ロシア軍をムラヴィヨフ・アムールスキー半島に押し込むことに成功する。また、海上は帝国海軍の巡洋艦勢が完全包囲している。極東ロシア海軍には、その包囲を突破しうるだけの稼働可能な軍艦は存在しない。

ウラジオストクは、完全に重包囲下に置かれることとなった。


この知らせが、ロシア皇帝ニコライ2世に届いたのが8月19日。

ポーツマスに滞在している、講和会議ロシア側代表、セルゲイ・ウィッテに伝えられたのが8月21日。

そして講和条約は、8月28日、妥協に達した。


帝国陸軍は、4度目の大博打にも辛うじて勝利を収めたのだった。


>第一章 5